断酒とSNSとファイトクラブ|他人の痛みに癒される僕は、“本当の自分”と向き合ってるのか?

SNSで見た言葉が、自分の行動を変える一歩になる──そんな感覚を、僕は何度か体験している。
「なんでだろう、他人の断酒ポストを見てると、少しだけ心が軽くなる」
X(旧Twitter)で「#断酒」「#アルコール依存症」などのタグをたどって、初めて知る人たちの投稿を読む。今日で断酒100日、また失敗して飲んでしまった、家族に怒られた、今日も飲まなかった──そんな言葉がタイムラインに並ぶ。
すると、不思議と気持ちが落ち着く。息が深くなる感覚がある。自分の酒の問題を直視できない夜でも、誰かの本音に触れるだけで、救われるような気がする。
でも、そのあとにやってくるのは、ある疑問だ。
「これって“自分じゃない誰かの苦しみ”に寄りかかって、現実から目を背けてるだけなんじゃないか?」
この問いは、僕が大好きな映画『ファイト・クラブ』を思い出させた。
この記事の内容は、動画でも解説しています。
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ファイト・クラブの主人公と僕
映画『ファイト・クラブ』の主人公は、虚無的な日常と不眠症に悩むサラリーマン。彼はある日、精神科医に「本当の苦しみを知りたければ、がん患者の会にでも行ってみろ」と言われ、冗談半分で参加する。
そして、驚くほどの癒しを得る。
病気の男性たちに抱きしめられ、涙を流し、ようやく深く眠れるようになる。生の実感が戻ってくる。だけどそれは、自分の現実と向き合うのではなく、「他人の本物の苦しみ」に触れることで自分の虚無を埋めようとする“代償的な癒し”だった。
僕がSNSで断酒ポストを眺めて心を軽くする行為は、これと似ているのではないか?そう思って、モヤモヤした。
それでも、ただの逃避ではない
でも少し冷静になって、自分に問い返す。
「僕は本当に、逃げているだけなのか?」
確かに、誰かの苦しみを“覗き見る”ような行為になってしまっている時もある。
だけど、違う夜もある。画面越しの誰かの投稿に、「自分ももう一度やってみよう」と思えた夜がある。「また立ち上がれるかもしれない」と希望をもらった朝がある。
あのポストたちは、誰かの“現実”であり、“本気”なのだ。
それに触れたことで、自分の内側にある「もう飲みたくない」「ちゃんと生きたい」という声が、少しだけ大きくなる。
その小さな声に耳を傾けたとき、僕は自分の現実と対話している。
共感は依存ではなく、つながりの入り口
SNSの断酒ポストを眺める行為は、たしかに快楽でもある。刺激的な失敗談や感動的な成功体験を見て、感情を動かされる。
でもそれを「共感」で終わらせるのか、「行動」につなげるのかは、自分次第だ。
主人公ががん患者の会に通って癒されていたのは、「現実に向き合う力がなかったから」だと思う。
でも、僕たちは違う。
Xで共感しながら、記録し、宣言し、ときに挫折しながらも、また進もうとする。共感は逃避ではない。つながりの入り口なのだ。
誰かの投稿を読んで、「よし、今日も飲まなかった」と日記をつける。「自分もこうして発信してみようかな」と思える。
それはもう、逃避じゃない。現実と向き合うための“手がかり”だ。
SNSを使って、自分に戻る
SNSはたしかに、危うい。
人の不幸を見て安心する“比較”や、“同情”だけで満足してしまう罠もある。
でも僕は、SNSのおかげで「またやってみよう」と思えた。
「こういう気持ち、わかる」と思えた。
そして、飲まなかった日が増えてきた。
SNSを使って、自分に戻る。
そのために他人の投稿を“借りて”もいいじゃないか。
大事なのは、そこから「自分の番」として何を始めるか、だ。
立ち止まらず、自問し続ける
他人の本音に触れて、癒されたっていい。
泣けたっていい。
でもそこで止まらないこと。
心が少し軽くなったときこそ、自分にこう問いかけてみたい。
「じゃあ、今日の自分はどうしたい?」
SNSで見た言葉が、自分の行動を変える一歩になる。
それならそれは、“逃避”じゃない。