「お酒、強いですね」にニヤついてた僕が、今は断酒してラクに生きている話

「お酒、強いですね」って言われるの、ちょっと嬉しかったんです
昔、お酒を飲んでいた頃、「お酒、強いですね〜」って言われるのが、なぜか少し嬉しかったんです。 自分ではそんなつもりないふりをして、「まあね、フフフ」なんて照れ笑いしていたけれど、 内心では確実にちょっと誇らしかった。今だからわかります。
本当は、“酒に強い”かどうかなんて、アレルギーと同じようなもの。 体質の違いでしかないし、優劣なんてあるはずがない。 でもあの頃の僕は、それに何か意味を見出していたんだと思います。
なぜ「酒が強い」はカッコいいと思っていたのか
たぶん、僕の中にはこんな思い込みがあったんです。
- 飲める人=大人っぽい
- 飲める人=場を盛り上げられる
- 飲める人=強い、頼れる
社会の空気とか、メディアで描かれるイメージとか、いろんなものが混ざって、 「飲めるほうがカッコいい」って刷り込まれていたんだと思います。
実際、僕は大量に飲むタイプだったので、 飲み屋では「すごいですね!強いですね!」と言われることが多くて、 自分では“喜んでるつもり”はなかったけど、 その言葉にニヤニヤしながら「まあね」と返す自分がいました。
飲み屋のおねーちゃんの営業トークにもまんまと乗せられて、 いい気になって、さらにもう一杯。 気づけば、そういう「飲めるキャラ」に自分から乗っかっていたのかもしれません。
飲めない人を見ると、どこか寂しかった
「飲めない人」を見ると、内心ちょっと寂しくなったりもしてました。 一緒に飲んでいる相手が全然飲んでいなかったり、 ノンアルで場に参加してるとき、「なんで飲まないんだろう?」って、 正直思ったこともあります。
でも今になって思えば、それは僕の“依存”に近い価値観がそう感じさせていたんだと思います。
僕の中にあったのは「みんなで飲んでナンボ」「盛り上がるには酒が必要」という思い込み。 でも実際、飲まずに楽しんでる人たちもちゃんといるんですよね。 そういう人たちを見るたび、どこかうらやましさとモヤモヤの混じった感情が湧いていました。
気づいた。「酒の強さ」って、本当に意味がなかった
断酒してから、その“強さ”の意味がガラッと変わりました。
そもそも酒に強い・弱いは、体質の違いでしかない。 アルコール分解酵素の量や、肝臓の代謝能力は人それぞれです。
ある人は缶ビール1本で真っ赤になってしまうし、 ある人はウイスキーをロックで5杯飲んでもケロッとしてる。
だから「強い=偉い」「弱い=ダメ」なんてのは、ただの思い込み。 そう気づいたとき、肩の力が抜けたような気がしました。
むしろ今は、「飲めない人、羨ましいな」って思うくらいです。 健康的で、お金も使わず、翌朝スッキリしてる。 最高じゃないですか。
酒のない世界は、とても静かで気持ちがラク
断酒してから、僕の生活はかなり変わりました。 まず、夜の時間の過ごし方がまるっきり違います。
以前は「今日は飲んでもいい日かな」とか、「ちょっと飲み足りないな」とか、 いつもどこかでお酒のことを考えていました。 それはもう“考えのノイズ”みたいなもので、常に脳内を占拠していた。
でも今は、そんな思考自体がゼロです。 夜は静かに湯船につかったり、読書したり、たまにはゲームしたり。 「飲むかどうか」なんて悩まない。 それだけで、すごくラクです。
酒飲みコミュニティの中では見えなかったこと
飲酒文化の中にいると、その価値観がすべてに思えてしまう。 「酒に強い自分」に価値があるような気がして、 そこにしがみついてしまう。
でも一歩外に出ると、それはまったく関係ない世界なんですよね。
飲めなくたって、面白い人は面白いし、 飲まなくたって、信頼される人は信頼される。 そのことに気づけただけでも、断酒してよかったと感じています。
「飲める人」でいようとする理由は?
もしあなたが「お酒、強いですね」と言われて少しでも嬉しかったなら、 その裏にある思い込みや価値観に、一度だけ向き合ってみてほしいと思います。
本当は、「飲めるかどうか」よりも、 「自分の本音に正直でいられるか」のほうが、 よっぽど価値がある。
もし飲めなくても、あなたの価値は変わらないとしたら──それでも、飲みたいですか?
【まとめ】“飲める自分”に縛られないでいい
- 酒の強さは、体質の話であって、人格の話ではない
- 「飲める=カッコいい」という思い込みは、手放しても大丈夫
- 断酒は、自分らしさを取り戻すための選択肢でもある